連載 No.41 2016年10月23日掲載

 

40年前 県展の思い出


今年の県展も終了するようだが、この時期になると思い出すことがある。

高校3年の夏、秋に開かれる学校の文化祭を学園生活のひとつの区切りと考えていた。

それまでは写真部の活動に精を出し、それが終われば後輩に譲って受験勉強に入る。

少し大げさかもしれないが、そんな自分なりのプランが大きく狂ってしまう事件があった。



写真部にとってもっとも大きな発表の場であり、

ずっと準備を進めていた文化祭が台風被害のため、開催直前に中止になってしまったのである。



昭和51年9月。台風17号が猛威を振るい、高知市に非常事態宣言が出された。

土砂降りの雨の中、部員の家族に学校まで車で送り迎えしてもらい最後の仕上げに精を出していたが、

その雨は弱まることなく数日間降り続き、河川が氾濫し市内のほとんどが浸水する事態になった。



救援に駆けつけた自衛隊が、学校のグラウンドや講堂に、駐留している状況を見れば、確かに文化祭どころではなかった。

延期ではなく中止。代替の展示等の要求は受け入れられなかった。

文化部の活動が軽視されているようで、やり切れない気持ちでいっぱいだった。



そのやり切れない気持ちの矛先を向けたのが県展だ。

審査の搬入まであまり時間がなかった。指導してくれる人もなく、

高校生なりにいろいろ考えて準備を進めた。



まず考えなければならないのが写真の大きさだ。

県展に限ったことではないが当時の写真展は大きなパネル貼りが当たり前。

入選するためには少しでも大きく伸ばしたい。パネルはもちろん自作。

現像処理のトレイも木材で作り、ビニールシートをかぶせて現像する。

水洗いは風呂場の床に仕切りを作って水を流すという急ごしらえだった。



出品は2点に絞り込んだ。多く出せば入選の確率は上がるだろうが、

1点ずつ加算される出品料も高校生には大きな負担だった。

カメラ雑誌で見かけるようなスナップ写真のタイトルを、搬入前徹夜で考えた。

そして審査の発表を見てみると、見事1点が入選している。

うれしかったのは当たり前だが、それよりも周りの変化に驚かされた。



それまでの自分の評価は「カメラ好きの」ぐらいだったが、周りの対応は「県展に入選した」に昇格した。

その急変ぶりは今でも忘れられない。

家族、親戚、学校にいたるまで、私が写真をやっていることに理解を示すようになった。

進学、そして職業の選択肢として、写真を勉強することにささやかなお墨付きをもらったように感じた。



ただ、微妙に納得がいかなかったのは落選したほうの写真。

自分としてはそちらのほうが好きだったので、

翌年の県展に大きくプリントしてもう再度出品、これが入選したのだった。

大きいほうが入選すると言う高校生の考えはあながち外れていなかったのか、

あるいは私の技術が上がったということだったのだろうか。